2007年1月31日 (水)

外野の草取りからの出発-6

 久しぶりの続きです。^^

 ベンチ入りメンバーを争う事になって、まったく欲の無いことを言っていた息子の話からです。

 実は前回の記事には、訂正があります。というのも、正月に久しぶりで帰ってきた息子本人と、このブログの話になり、ダメだしされてしまったんです。ちょっと思い違いをしていて、怪我をしたのは、センターのレギュラーの子ではなく、センターの控えで息子とともにベンチ入り争いをしていた子でした。

 当時は、先輩に花を持たせるような事を言っていたんですが、正月に本人に本心を尋ねたところ「俺のほうが上だと思っていた」そうで、当然自分がベンチ入りするものだという余裕のようなものがあったようです。

 ベンチ入りですが、故障した先輩君が入りました。

 監督の考え方は聞いていないので何とも言えませんが、息子には来年があるし、ここは怪我をしていても、今までの頑張りを評価して最後の夏のベンチに入れてやろうという考えだったろうと推察します。冷静になって考えればそういうことでしょうが、当時は、私も息子もショックは大きかったですね。

 とりわけ息子のショックと反発心は強かったようです。(実を言うと、今でも高校の監督のことは良く言いません。) (^^;;;

 結局のところ、この夏もベスト8止まりで終ってしまいました。実は、息子にはジンクスがあって(私が勝手に思い込んでいるんですが^^)小学校の時は、5年生で千葉県大会に出場し、ベンチ入りしましたし、中学では、2年生の時にシニア日本選手権に初出場し、神宮のベンチに入りました。

 だから、この時も息子がベンチ入りしていれば、甲子園のベンチに入れると信じていたんです・・・。

 このことがあって、彼も発奮したんでしょうね。夏の練習も集中できたようで、秋の新チームのレギュラーを獲得しました。(背番号7です。)それどころか、第8ブロックの県予選では乗りに乗って、チームで打率と打点の2冠でした。

 予選の余勢をかって選抜につながる秋季千葉県大会に勇躍出場しました。その1回戦、相手は機動力の優れた◎葉商大付属、予選では5番を打っていた息子は本番では3番に上がっていました。

 息子の第1打席、カウントは忘れましたが、力一杯振り切った打球が自打球となり、左足のつま先に当たりました。

足先を気にして走る様子の無い息子、しかし、審判の判定は「フェア!」、相手キャッチャーは1塁に送球して、「アウト」、一生懸命審判にアピールする息子、ベンチからも監督が確認に来ました。

それでも判定は変わりませんでした。

「そんな馬鹿な」「うちの息子は嘘つきじゃないぞ~!」とスタンドからもアピールしましたが、空しく試合は続行となりました。

 この時に、私は8ミリビデオカメラで決定的瞬間を撮っており、後で何回も確認しましたが、息子の言うとおり確かに足先に打球が当たっていました。

悔しい気持ちで一杯ですが、審判の判定は最終のものですから、仕方がありません。この場合、自打球ファールを認めて再スタートで何も問題ないような気がします。審判の方には、もう少し勉強してもらいたかったですね。

 そんなことがあって、しかも、この試合クリーンアップにまったく当たりがありません。1-2で初戦敗退となってしまいました。

 選抜出場も夢と消えた瞬間でした。「あの審判の判定から歯車が狂いだしたな・・・。」(独り言)

 今回は、この辺で、失礼します。この続きは、次回に。

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2006年12月24日 (日)

外野の草取りからの出発-5

 久々の続きです。10月20日からですから2ヶ月以上経過してしまいました。前の投稿をすっかり忘れていたので確認しながら書いてます。

 入学したてで、先輩にユニフォームを借りて練習試合に出してもらい、空振り三振に終った話の続きです。

 三振に終ったものの、かなりいいスイングをしていたので、その後も代打で何回か練習試合に出してもらっていました。しかし、5~6打席凡打に終る頃には使われなくなり、他の予備軍たちにチャンスが回ってきます。高校になると毎日練習がありますから、打撃練習で結果の出ているものが週末の紅白戦や練習試合に出してもらえることになります。子供は、練習の結果について多くを語りませんが、週末に代打で使ってもらえるかどうかで調子の良し悪しが窺えます。

 シニアの頃は、週末だけの練習ですから、仕事から帰った後にグラウンドに連れ出してトスバッティングなどをしましたが、高校になると家に帰って、食事を食べた後は、さすがに疲れてしまって、ベッドで布団もかけずにいびきをかいていました。今になって思うんですが、ご飯の後に、腹ごなしの素振りでもさせておけばよかったなと少し後悔しています。高校の頃の若い身体には、決して無理なことではなかったと思います・・・。しかし、あの寝顔を見るとそのまま寝かせたくなってしまうんですよね~。私に少しばかりの話術とやる気と心を鬼にすることができていれば、結果はもう少し変わっていたかも?と思ったりしますが、こればかりは「後悔、先に立たず」です。

 そんなこんなで、1年の秋までは練習試合のベンチ入りも無しでしたが、新チームになり、年を越して2年になる頃には、練習試合のベンチには入れるようになりました。(もちろんレギュラーではありませんが。)しかし、春の公式戦のベンチ入り、20人の仲間入りはできませんでした。

 練習試合は、概ね専用球場に相手を招いて行われますが、相手が強豪校の場合は、遠征します。茨城は「常総学院」「土浦日大」など、埼玉は「春日部共栄」「浦和学院」など、神奈川は、「東海大相模」「横浜商業」などには毎年遠征して練習試合をやりました。ただ「帝京高校」などは、専用の球場を持たないので、来てもらっていました。「東海大相模」や「東海大浦安」などは、同じ付属校仲間なので、お互いに行ったり来たりしてやっていましたね。

 うちの高校は、大物食いでこれらの強豪校には比較的強くて、勝率が良かったんですよ。

 さあ、いよいよ2年になって夏の県予選です。実はこの大会が始まる前には2泊3日の春の静岡遠征があるんですが、この遠征でレギュラーのセンターの子が大怪我をしてしまいます。夏の大会でプレーをするのは絶望的な状況でしたが、彼にとっては最後の夏です。一方、息子にとっては千載一遇のチャンスです。同じ外野で、ベンチ入りの瀬戸際に立っていましたから・・・。監督も迷ったと思いますよ、プレーはできなくても今まではレギュラーで、外野手の中心となって活躍してきた子ですから。私は、全く不謹慎ながら心の中ではベンチ入りを強く願っていましたが、息子は、その先輩と仲が良く、「俺はいいよ、来年があるから。」と全く欲の無いことを言っていましたね。

 どっちがベンチ入りしたかは、次回のお楽しみにしておきます。

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2006年10月20日 (金)

外野の草取りからの出発-Ⅳ

 Ⅲからの続きです。

 平成8年8月、AA世界少年野球大会が日本で開かれました。しかもメイン会場は千葉県のマリンスタジアムです。このときの全日本のメンバーには我がS倉シニアからもひとり選抜されていましたから、私達父兄の応援団も応援に駆けつけたものです。

 世界各地から色とりどりのユニフォームに袖を通して子供達が集まり熱戦が繰り広げられて、それは華やかな大会でした。

 その時に我がS倉シニア3年生のメンバーは球場の補助員として働くことになりました。世界の子供達と接する機会を得られたことは、本当に良い経験になったと思います。我が家の息子などは、家に帰って来て「キューバの奴らは、エチケットを知らない。生意気な奴ばっかりだよ。」などと言っていました。しかし、彼らののびのびとしたプレーや身体能力の高さなどを目の当たりにして、刺激を受けたのは間違いないと思います。

 その時の4番バッターは現在ベイスターズに在籍している七野智秀君でした。同じくベイスターズの田中一徳君なんかもいましたね。大分からエースとして選ばれていた松本君という左腕は、すごいと言う前評判だったんですが肩の故障だったらしく、最後まで投げることはありませんでした。そのせいか、この年の日本チームは確か8位くらいで振るわなかったのを覚えています。前の年の全日本のメンバーには、西武の松阪なんかがいて注目されたんですけどね。

 そんな事で色々と刺激を受けながらシニアも無事に卒団でき、監督の推薦もあって、めでたく東○大の附属高校に進学できることになりました。外野で草取りをしていた子供が野球の推薦で(ちゃんと入学試験は受けましたが)高校に入れるまでになったのですから、親の贔屓目だとしても大したものだと思っています。

 高校野球では、中学で硬式をやっていたので最初からちゃんとした練習の仲間に入れてもらっていました。と言うのも、野球部員は1年生だけで36名位はいましたし、全員では100名弱はいましたから、専用球場でキャッチボールからノック、バッティング練習等が出来るのは、25名前後でした。中には、一度もこの仲間に入れないままに卒業する子供もいましたからね。この25人に入るだけでもちょっとした狭き門なんですよ。シニアでやらせて良かったなと思える瞬間です。

 4月に入学したその月だったと思います、学校の専用球場で行われた練習試合でのことでした。当時の3年生と息子が監督に呼ばれて、監督が3年生の子に言いました。「○○お前のユニフォームを△△に貸してやってくれ」・・・息子はまだ入部したばかりでユニフォ-ムが出来ていなかったのです。3年生はその場でユニフォームを脱いで息子にかしてくれました。私は、複雑な思いでその光景を見守っていました。

 代打で出た結果は、と言えば空振りの三振でした。日頃から見逃しの三振だけはダメと言っていたこともあったし、このときも3回ともフルスイングでしたから妙に納得してはいましたが、ユニフォームを借りた3年生には申し訳ない思いでいっぱいでした。その3年生には、ユニフォームを返す時に「いいスイングしてたよ。残念だったな、今度は頑張れよ」と慰められたと言ってました。こういう先輩のためにも頑張ろうという気力が沸いてくると言っていた息子を、まぶしい思いで見つめたことを思い出しました。

 今日は、ここまでにします。 また後ほど。

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2006年9月18日 (月)

外野の草取りからの出発-Ⅲ

 平成7年8月、我が○倉シニアは、第23回日本選手権大会に初めて出場することになった。シニア創設以来3年目の快挙である。

 息子は、2年生だったがベンチ入りした。25人がベンチ入りできるところ、3年生13人、2年生10人の23人しかいなかったのだから当然と言えば当然なのだが、全国大会の、しかも神宮球場の(第2だったが。)ベンチに入れるのだ。これは、子供たちにとっては、かけがえのない経験である。

 こういった経験が、子供たちの野球に対する意識を高くし、練習の熱も高くなってくる事は、まちがいない。試合は、1回戦で東海連盟の鈴鹿シニアに7-4で敗れたが、この大会で子供たちが得た物は、全国大会でも十分に戦えると言う自信と、頑張れば夢は叶うんだという、手の届く目標が見えたことだろうと思う。

 この大会での、2年生の活躍はめざましいものがあり、5人がレギュラーに入っていたし、主戦投手と4番バッターが2年だった。秋季大会では、当然のことのように関東大会に出場したが、我が息子は、いまだにレギュラーには遠かった。1年生には後にシニア全日本に選ばれるような子供がいたから、下からの突き上げもあった。

 子供の目の色が変わってきたのは、この年の暮れ頃からだと思う。いつものように仕事から帰ると、「親父、ティーバッティングに行こう。」と息子から言ってきたのだ。翌年の1月には、現在の球場である「佐倉シニア球場」(後援会長の名前を取って「山清球場」といいます。)がオープンしたのだが、工事中のバックネットに向かって、後ろから車のヘッドライトを照らしてのティー練習が始まった。

 それこそ、よほどの雨でもない限り毎日続いた。ティー用のボールはかごに入れて80球ほどはあったと思う。それを毎日5~7箱は打ったと思う。(400から500球位かな。)翌年の2月初旬まで20000~25000位は振った計算になる。子供も疲れてくると、私のあげるボールが良くないなどと文句が出て来て、こっちはこっちで、「やる気がないなら帰るぞ!」ってなもんで、もう喧嘩腰でした。今では懐かしい思い出で、子供とも話題になります。

 おかげで、(おそらく、そのおかげだと思っている。)今まで先発出場など、夢だったのが、7番レフトなんかで出れるようになり、それなりの結果も出るものだから、完全にレギュラーとは言えないまでも、試合には出れるようになった。監督に言わせると、「子供のスイングと手の平を見れば、平日に家でどれくらい練習してるかはわかりますよ。」ということだそうです。家の息子だけでなく、シニアに来るような子供は、みんな家でやってますから、その中で誰を使うかってのは、監督も大変だろうな~って思いますね。

 息子の同級生で、シニア全日本のメンバーに選ばれた子がいるんだけど、この子なんか、新聞記者(東京中日スポーツ)のインタビューで、「1日に2000本の素振りをしたことがあります。」なんて言ってましたよ。某有名航空会社勤務のお父さんの話では、やめようとしないので、ブレーキをかけるのに苦労しました。なんて言ってました。家の息子に爪のアカでも煎じて飲ませたい・・・・・・。

 この年の夏は、残念ながら選手権出場は逃しましたが、同級生が出場するAA世界少年野球大会が千葉マリン球場を中心として開かれた関係で、子供たちは球場で補助員をやることになりました。

 この後は、また後ほど。

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2006年9月13日 (水)

外野の草取りからの出発-Ⅱ-

 中学校の中では、運動は得意な方だし、足も特別速くはないがトロイ訳でもない。体はでかいほうである。中1の冬には、175cmある親父と同じくらいにはなっていた。だけどシニアの仲間と比べると、優れているのは身長だけなのだ。性格は明るくて、おもしろいから、みんなに好かれて人気者である。みんなに恐れられている監督にも何故か受けがいいのだ。

 しかし、1年経っても一向に試合に出れる気配がない。本人もそれで悔しいと思っている節もない。あまり、息子の練習には口を出さないし、本人が言ってくるまでは、何もしないと思っていたが、これではいけないと私は口を出すことにした。我が家の猫の額の庭にネットを張って、ティーバッティングを始めることにしたのだ。仕事が終わって家に帰るのは、早くても7時位だからあたりはすっかり暗くなっている。それから200から300のティーをやりだしたが、しばらく続けているうちにまずい事が起こってしまった。妻には、「夜も遅いし、結構大きな音がするし、近所迷惑になるから、止めたら。」と言われていたのだが、ある日、1球がネットを越えて、隣の家の屋根の上も越えて、その先の道路まで達してしまったのだ。ガシャーンという音はしなかったものの、「ヤバイ」と思わず2人で見合ったものだ。

 女房からも「もうやめなさい、やるんだったらシニア球場に行ってやりなさい。!」という最終決裁がおりて、我が家でのティー練習は、1ヶ月も持たずに終焉を迎えたのだった。それからは、シニア球場に行って毎日バックネットに向けてのティーが始まった・・・と言えたらカッコ良かったのだが、疲れて家に帰って来て、それから車でシニア球場まで出かけて、車のヘッドライトを頼りにティーをするって事も長くは続かなかった。今日はやめておこう、なんて言ってるうちに1週間に3回が2回になり、1回になり、ついには、月に2~3回になってしまった。

 そんなことだから、2年になってもレギュラーなんて夢物語だった。他の同級生は、3年生に混じってレギュラーを獲得している子が5人もいるというのにだ。情けないが、息子はめげるでもなく、練習には毎週欠かさず楽しそうに参加しているのだけが救いであった。

 そんな中、我がシニアは、その年の夏の関東大会で大躍進し、日本選手権大会に初出場することになった。・・・・・時間がなくなってきたので続きは、また後ほど。 m(_ _)m

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2006年9月11日 (月)

外野の草取りからの出発

 息子が野球を始めたのは、小4の初夏の頃だったかな。家に帰ってくるなり、「パパ、和田小に野球を見学に行く。」と言い出した。彼は佐○小在学中だから、何で和田小なんだ、と私は思った。よく聞いてみると、和田小学校の校庭をホームグラウンドにしている「和田少年野球クラブ」というチームがあって、そこの事務局長さんの奥さんが佐○小学校の先生をしていた。それで、その先生に体の大きな子だというので誘われたようだ。

 息子は、すぐに気に入って入部することになった。しかし、気に入ったからと言って気合が入っていた訳ではなかった。仲間の子供達と仲良くなれたし、ボールと戯れるのが嬉しいからというのが理由だ。案の定、飽きるのも早かった。ハーフとかフリーバッティングなんかで外野の後ろで球拾いをしている内に、見えなくなったと思ったら、何と、一生懸命草取りをしているではないか。「おいっ!ボールが飛んでくるぞ、声を出してちゃんと前を向いて守ってろ。」と私。

 と、まあこんな感じで1年が過ぎた。監督が気に入ったのか、辞めるとは一度も言ったことがない。毎週土曜日曜と、せっせと片道約5kmほどの道を自転車で通ったものだ。

 5年の時だった、当時の6年生が北総大会で優勝したのだ。これという目立った子はいなかったものの、チームワークと監督さんの力で(これが一番大きいと思う。)千葉日報杯という少年野球の千葉県大会に出場することになって、5年だった息子も一応ベンチに入れることになった。何のことはない、25人がベンチ入りできるところ、5年、6年合わせても23人しかいなかったのだ。

 しかし、こういう大きな大会で、ベンチに入るというのは、予想以上に子供にとって大きな自信になるものだと思う。普段は、原っぱのようなところで試合をしているが、こういう大きな大会では、立派な球場を使う。ベンチも全然違う、立派なのだ。監督いわく「いいか、俺の言うとおりにやれ!絶対に勝たしてやる。」それで、監督の言うとおりにやっていたら、あれよあれよと言う間に準決勝まで進んでしまった。準決勝では、優勝したチームに惜しくも敗れてしまったが、3位決定戦はなく、両者3位なので堂々の第3位だ。

 結局、息子の出番は、最後まで無かったものの、大きな自信と将来も野球を続けようという決意が宿ったのだった。翌年、その時の監督が、現在の中学生硬式野球クラブチーム「佐○シニア」を結成し、現在に至っているのだ。6年生となって、ようやく試合には出れるようになったが、5年生の子にポジションを取られるなど、最後までレギュラーに定着することは無かった。

 しかし、監督さんを慕って、小学校卒業を待たず、同学年ではトップをきって、12月にはシニアに入部したのは誰あろう我が息子だったのだ。それでも、やはりというべきか、気持ちと実力は別物で、練習試合には出れても公式戦に出場することは、なかなか出来ないで1年が過ぎ去った。

 今日はちょっと時間が無くなったので、このあとはまたの機会に。

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